髪結い亭主


髪結いの亭主といえば男なら誰しも一度は憧れるものだろう。
何しろ女房に稼がせて自分は遊んで暮らせるというのだから、こんないいことはない。
世間知らずのちょっとぐうたらな男を想像するが、そんなステレオタイプとはちょっと違った髪結い亭主の話を昔読んだことがある。
それはある雑誌の投稿欄に載っていたもので自らの体験を綴ったものだった。
もうずいぶん昔のことなのでうろ覚えだがおよそ次のような内容だった。
 
 『私は下町で美容院を営む主婦ですが、私たちのちょっと変わった夫婦のことをご紹介したいと思います。
 
  私がまだ修業時代のころのお正月、新年のご挨拶に師匠の家に伺いました。
  その時ちらっと見かけた着物姿の娘さんが実は息子さんだと後で知らされて大変驚きました。
  その後、今度は桃の節句菱餅をもってお伺いしたところ、その息子さんはお引きずりを着ていました。
  私が
  「そんな格好してうれしい?」
  と聞くと、
  「ええ、とっても…」
  とぽっと顔を赤らめて答えました。
  その様子は本当の娘のようでとても男には見えませんでした。
 
  問わず語りにお師匠さんはこんなことを話してくれました。
  実はお師匠さんには息子さんの姉にあたる娘さんがいたそうですが、事故で亡くなったそうなのです。
  悲嘆に暮れたお師匠さんは、娘さんの好きだった着物を手にしては泣き暮らしたそうです。
  ある時傍にいた息子さんにふと
  『いやでなかったら姉さんの着物をちょっと着てみてよ。あんた小柄で姉さん似だから着物がよく似合うと思うよ』
  と言ったのでした。
  娘を亡くした悲しさに、ほんの気紛れでしたことがそれだけでは済まなくなったのです。
  変わり身の楽しさに目覚めた息子さんはその後も何くれとなくせがんで着物を着せてもらうようになったそうなのです。
 
  早くに夫を亡くし、お店の切り盛りに大変だったお師匠さんは家事に手が回らず息子さんがよく炊事洗濯と手助けしてくれて助かったとか。
  当時高校生だった息子さんは勉強もあまり好きではなく、家事をする方が楽しいといって学校も休みがちになり、とうとう学校も辞めてしまったそうです。
  そして髪も伸ばし、着るものもすべて女物になり本当の娘さんのような生活に入ったのです。
  朝起きるとブラウスにスカート姿で家事をこなし、それが済むと大好きな着物に着替えて過ごす。そして夜は赤い襦袢を着て床に就く…そんな生活が始まったそうです。
 
  そんなことがあってからしばらくして、私はお師匠さんに大事な話があると呼ばれました。
  何事かと訝っていると、
  「もしよかったら、あんな息子だけど結婚してもらえない。あの子は学校もやめてしまって碌な仕事にも付けないだろうし、幸い家のことはよくやるから、あんたにお店の方を継いでもらえれば万事うまくいくと思うんだけど…」
私にとって青天の霹靂のお話でしたのでその場はよく考えてみますと言って帰りました。
  息子さんは確かに普通の男性とは変わっていましたが、女の格好をしたその姿を私は決して嫌いではありませんでした。
  また、すぐに自分のお店が持てるというのはとても魅力的でした。いつか自分のお店を持ちたいと願っていた私には渡りに船のお話でした。
  結局私はお話を受け入れ私たちは籍を入れました。
  結婚すると夫はますます女っぽくなりました。
  そして妻の私に甘えような仕草もして、そんなときは本当にかわいく見えました。

  髪結いの亭主というと普通はあまり仕事もせず遊び暮らしている男を想像しますが、夫は家事一切を引き受けてよく家を守ってくれています。
  私も義母からお店を任されて、やりがいを感じて仕事に励んでいます。
  外から見ると変わった夫婦に見えますが、私はこれで結構幸せだと思っています。』
 
体験談ということだが、本当かどうかわからない。
真相はわからないが希望を込めた創作のような気がしないでもない。
実話かどうかは別にしてこれを読んだ当時はまだ血気盛んな頃だった
から、この男の生き方など何の感慨も湧かなかった。
でも今改めて考えてみると、ちょっと羨ましいような気がする。
男としては少々不甲斐ないかもしれないが、好きなことをして生きて
いけるなんて最高ではないか。
仕事や職場の煩わしい人間関係のストレスも無縁で生活できるなどと
いうことはなかなか無いことだ。家事を任せられるのも大変だろうが、
仕事に比べれば何のことはない。
それにいつでも大っぴらに女の着物を着て暮らせるなんて夢のような話だ。
しかしここまで考えてちょっと待てよと思った。
家族公認でいつでも女の着物を着ていると、慣れてしまってそれが普
通になってしまう。
人目を忍び、一人ひっそりと振袖に袖を通すときのわくわくするよう
な悦びなど味わえなくなってしまうのではないか。
女の着物を着て女のような姿になって倒錯感に浸る、その隠微な楽し
みはいろいろな制約があってこそのものかも知れない。