春宵(3)

秋も深まり、集く虫の音もなにやら寂しげになってまいりました。
光陰矢の如しと申しますが、この乳母の年になりますと月日はあっという間に過ぎ去ってまいります。
若君様にお仕えして早や十幾年、ついこの間まで乳母のお乳を無心にむさぼっていたと思った若君は、もはや元服のお年頃。
さりながらお労しいのは若君の今のお身の上でございます。
奸臣御城代の策謀によりお殿様は亡きものにされ、奥方様は御自害、一人遺された若君は今や下屋敷に押し込めのうえ、こともあろうに仇敵御城代の枕席に侍るお身の上とは。
この世に神も仏もないのでございましょうか。
いっそこの乳母も早う奥方様のところへ参りとうございますが、その前になさねばならぬことがございます。
若君様が見事亡きお殿様、奥方様のお恨みを晴らし、奸臣を屠るのを見届けるまではこの乳母は死んでも死にきれないのでございます。
奢れる者久しからずと申します。いつしか必ず機会が巡ってまいります。
その時までひたすら辛抱が肝要かと存じまする。
 
若君様、衣桁にかけたこの白無垢の花嫁衣裳、先日御城代様より使いの者が持参いたしたものにございます。
その者の申すことには、本日御城代様下屋敷へお渡りの節には若君にこの白無垢をお召しいただくようにとのことにございました。
更に、夕刻より当屋敷において三々九度の杯ごとの後、ご披露の宴を催すとのことにございました。
何ということでございましょう。若君を花嫁に仕立て、祝言のまねごとをして配下の者たちを呼び集めて酒宴を開こうというのでございます。
何という卑劣な企み、どこまで若君を侮れば気が済むのでしょう。
しかしここでいくら乳母が悲憤慷慨しても所詮ごまめの歯ぎしり、乳母にはどうして差し上げようもございません。無力な乳母をお許しください。
 
本来であれば月代の剃り跡も青々と凛々しい元服のお姿におなり遊ばすはずの若君に、白無垢の花嫁衣裳をお着せ申し上げねばならぬとはなんと恐れ多いことでございましょう。
いかに権勢並ぶもの無き御城代様とてあまりのなさりよう、乳母はもはや言葉もございません。
かくなる上はこちらにも意地というものがございます。
人を踏みつけにした悪企み、逆手にとって御城代の鼻を明かしてやりましょう。
そこらの女子には及びもつかぬほどの艶やかな花嫁姿になって、若君の高貴なる品格をお示し遊ばすのです。
この乳母腕によりをかけてお支度させていただきまする。
 
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本日の若君は誠にご立派でございました。
身は花嫁姿にやつしていても、にじみ出る気品と心根の高さは並みいる臣下の者どもをさぞ心服させたことでございましょう。
私が若君のお手を引いて宴の間へ参りました折の、御城代をはじめ配下の者どもの呆けたような顔をご覧あそばしましたか。皆口をあんぐりと開け、若君のろうたけた美しさに見惚れて居りました。
更に宴もたけなわ、配下のものが若君の前に進み出て、無礼にも杯を差し出して酒を注ぐよう請いました。
世が世なら若君にお目通りもままならぬ臣下の分際で何という恥知らずな振る舞い。乳母は傍で見ていてハラハラいたしました。
ところが若君は顔色一つ変えず何事もなかったかのように平然と酒をお注ぎになりました。若君の度量の大きさに配下の者もさぞ恐れ入ったことでございましょう。
 
 なんといっても今宵の若君の艶やか花嫁姿に心を奪われたのは御城代様ご本人でございましょう。
若君を仮初の花嫁に見立て、座興のつもりの宴を催したまではよかったのでございますが、白無垢の花嫁衣装をまとった若君の艶冶なたたずまいにすっかり魂を奪われてしまったのでございます。
雪の精のような清らかな白無垢姿は、仮初どころか凛とした花嫁としての気品に満ちてご城代の心を鷲掴みにしたのでございます。
そしてこの妙なる花嫁と一刻も早く初夜の褥を共にしたいという淫欲が燃え上がったご城代は、宴半ばにして花嫁姿の若君を伴って奥の間へと消え去ったのでございます。
 
 しかしこの屈辱もいつまで続くものではございません。
ご家中なべて御城代にひれ伏す者ばかりとは限りません。
仄聞するところによれば、反城代家老の一派が密かに動き始めたとの由。
朗報のもたらされる日もそう遠くないやも知れませぬ。