春宵(8)

 

本日は亡きお殿様と奥方様の祥月命日にございます。
本来ならば菩提寺において盛大な法要が営まれるはずでございますが、奸臣ご城代が権勢を欲しいままにする今、それはかなわぬことにございます。
家臣の中にも心を痛めるものもあると聞き及びますが、ご城代の権勢を恐れ傍観を余儀なくされている由にございます。
さりながらこのままではあまりにご不憫、せめてこの乳母だけでもと先刻菩提寺に参り、ご住職にお願いして墓前で供養のまねごとをさせていただいたのでございます。
若君におかれては下屋敷に押し込めの身の上、二親の命日の墓参もかなわぬとは何とお労しいことでございましょう。
それを知ってか知らずか、ご城代には今宵お渡りの由にございます。
何という恥知らずでございましょう。
せめて今宵は香を手向け、心静かにお二方の霊を慰めたいと願う若君のお心を踏みにじり、自身の欲望を満たさんがため若君を毒牙にかけようとはご城代のお心が知れませぬ。
さりとて絶大なる権勢を誇るご城代の意向に逆らうことは叶わぬことにございます。今は雌伏のとき耐え難きをしのぶほかございません。
外ざまにこだわらず、心を強く持つことが肝要かと存じます。たとえその身は凌辱されようと心根は穢されるものではございません。
ご城代の専横な振る舞いになす術もないこの乳母の無力が歯痒いばかりでございます。
一矢報いるほどのことでもございませんが、せめてもの抗いの心意気として今宵のお寝間の衣裳は喪服をお召しいただいたらいかがかと存じます。
亡き御母上の残された数多いお衣裳の中に喪服一揃えがございます。
奥方様が姫御前の砌お仕立てした白縮緬二枚襲の引き振袖でございます。
幸いなことに奥方様は一度も袖を通すことはございませんでしたが、まさかこのような形で若君がお召しになるとは誰が考え及んだことでございましょう。

冬空の抜けるような青も茜色に染まり、今や三ツ星が東の空にその輝きを増してまいりました。
そろそろお支度の頃合いかと存じます。
お湯あみ後のすべすべのお肌を緋綸子のお襦袢でお包み致します。
本来なら喪服のお襦袢は白でございますが、今宵は敢えて緋のお襦袢にいたしましょう。
されば全くの喪服姿ではさすがにご城代の心証を害する恐れがございます。それが若君に思いがけぬ災いとなるやも知れませぬ。
こうして一点を外しておけばいかようにも申し開きができようというもの。
大きく衣紋を抜いて伊達巻を締めたらお振袖をお召しなされませ。
この縮緬の白無垢も若君に袖を通されてようやく日の目を見たことでございますが、それがよいことなのか悪いことなのかこの乳母にも判断はつきかねるのでございます。
姫様用の帯は丈が十分にございます。こうして文庫に結びますと羽根がお腰のあたりまであって立派な大文庫が出来上がりました。
お対の紋縮緬のお打掛はたっぷりと真綿を含んだ綿入れ仕立てございますので、細身のお身体をふっくらと包んで大層心地良うございましょう。
さあ、お支度が整ってございます。
おお、なんと艶冶な喪服姿にございましょうか。
白無垢の長いお袖から覗く緋綸子のお襦袢がほのかに艶を添えて、えもいわれぬ手弱女振りにございます。
この乳母でさえ迷いそうなほどの妖艶なお姿、ご城代の若君へのご執心は更に深まるばかりでございましょう。
そのご執心がゆるぎないものになったとき、新しい道筋が見えてくるのでは…なぜか乳母にはそのような気がするのでございます。

寒中というのに早やいずこからともなく梅の香が…春はすぐそこにございます。
若君にも春が訪れるのはそう遠いことではないと存じます。
そろそろお出ましの頃合いかと。
ささ、若君お手を…。