春宵(11)

若君が奸臣城代一派を粛正し、正当な藩主としてその座についてから早や三年の月日がたったのでございます。
もはや押しも押されもせぬ立派な藩主として家臣一同の信頼も厚く領民にも慕われているのでございました。
そんな若君、いえお殿様もそろそろ奥方を迎えてもおかしくないお歳でございますが、一向にその気配が見えないのでございます。
ご家老様を通して他藩の姫君との縁談をお勧めするのですが、言を左右に色よいお返事はいただけないのでございました。
それではと見目麗しい商家の娘などを行儀見習いとして若君のお側近く侍らせても、一向に効き目はないのでございました。
これでは乳母は安心して奥方様の元へ参るわけにはまいりません。
何とか早くお殿様に奥方をお迎えいただき、一日も早くお世継ぎを・・・
それが目下の乳母の願いなのでございました。
お殿様はもう立派な大人、若君の頃のように乳母がお側近くお仕えすることもなく時折寂しい思いをする乳母でございますが、それは仕方のないことと得心しているのでございます。
しかしお殿様はそれをよいことに少々羽根を伸ばし過ぎではと乳母は愚痴の一つも言いたくなるのでございます。
そんな乳母の心配をよそにお殿様は女子には目もくれず、お小姓衆に美童を揃えてご満悦なのでございました。
そしてあろうことかどうやらお小姓を時折お寝間へ引き入れておいでのようなのでございます。
戦国の昔から寵童は武将の甲斐性のようなものもの、そのことについてはとやかく申すつもりはございませんが、女子に目が向かないというのは困ったものにございます。
このままではいつまでたってもお世継ぎの望みはなく、ゆくゆくは藩存亡の危機に瀕することは明らかでございます。
万一そのような事態に立ち至れば、お世継ぎの座をめぐり、先の城代の変事の二の舞を見ることになるやも知れないのでございます。
乳母は事あるごとにお殿様に申し上げていたのでございますが、一向に埒が明かないのでございました。
そんなある日乳母は一大決心をしてお殿様に談判に及んだのでございました。
お勧めした縁談になかなか首を縦に振ろうとしないお殿様に業を煮やした乳母もはやまでとその場に威儀を正し、こう申し上げたのでございます。
『わかりました。これほど申し上げてもお聞き入れいただけぬのならもはやこれまで。乳母は亡き奥方様に顔向けできませぬ。死んでお詫び申し上げるほかございません』
そして胸に手挟んだ懐剣の房紐を解き放つと、黒鞘の懐剣をすらりと抜き、切っ先をのど元にあてたのでございます。
この芝居じみた諫言が功を奏したのか、お殿様は縁談のこと必ずや近いうちに返答するとのお約束をいただいたのでございます。
それから程なくして、乳母はお殿様からお考えを伺ったのでございますが、それは思いもよらぬものでございました。
何とお殿様は隠居なさるというのでございます。艱難辛苦の末手に入れた藩主の座をいとも簡単に投げ出すとは・・・開いた口が塞がらないとはこのことでございます。
質問の矢を放とうと意気込む乳母を目顔で制してお殿様は次のようなことをお話しになったのでございます。
自分が隠居した後は、先代お殿様の弟君で他藩へ養子にゆき、今はその藩主となっているお殿様のご次男を養子として貰い受けるというのでございます。
お殿様の叔父君のご子息、すなわちお殿様の従弟に当たられる方を養子とし、ゆくゆくは藩主の座を譲るというのでございます。
このことはすでに各方面に根回しをして内諾を得ているというのでございます。
このような大胆なことを何ゆえに・・・乳母にはにわかに得心がいかないのでございましたが、賢明なるお殿様が熟慮を重ねた末のご決心、乳母が口を挟む余地などないのでございました。
さりながらよくよく考えてみますと、ある時お殿様と談笑の折ふと漏らされた、
『女子は苦手じゃ』
この一言が妙に乳母の心に残ったのでございました。