春宵(4)

若君様、今宵も御城代様下屋敷へお渡りの由にございます。
湯殿の用意も整ってござりますれば、そろそろ湯浴みなどなされてはいかがかと存じまする。
乳母がお背中などお流しいたしましょうほどに。
 
まあ、なんと餅肌とはよく言ったもの。お湯に浸かった後の白いお肌が薄桃色に染まって、得も言われぬ風情にございます。
この染みひとつ無いお肌は亡き奥方様の賜物、乳母がこうして糠袋で磨いて差し上げます。
それにしても穢れを知らぬ無垢なお肌が、あの忌まわしい御城代の手で汚されると思うと乳母は悔しゅうございます。
手塩に掛けてお育て申した若君が、まだ蕾のまま無残に手折られるのを指を銜えて見ていることしかできぬ乳母が不甲斐なく、口惜しゅうございます。
さりながら、近ごろの若君のご様子を見るにつけ乳母にはちと得心がゆきかねまする。
それは御城代様お渡りの日、若君にはいつになくご機嫌麗しく、その日を心待ちにしておいでのようにお見受けすることにございます。
まさかそのようなこと、あるはずもございませぬが、これは乳母の僻みというものでございましょうか。
もともと御城代のお指図により、御城代お渡りの折お着せ申し上げたお振袖。
若君も心ならずお召しのこととお察し申しておりました。
ところが近ごろ、若君は柔らか綸子の艶やかなお振袖がことのほかお気に召されたご様子にて自ら進んでお召しになります。
まさか若君は御城代の手練手管に溺れ、御城代を仇敵と憎む気持ちが薄れ、別なお気持ちが芽生えてきたのではありますまいか。
百戦錬磨の御城代のこと、無垢な若君を操ることなどたやすいことでございましょう。
初めてまとった緋のお襦袢に滑らかな友禅のお振袖、はじめは窮屈なだけの帯も次第にその心地よさに目覚めていかれたのも無理からぬこと。
ましてそのお姿で御城代のお情けをお受けになって、妖しい愛欲の情念に火を点されたのでございます。それが炎となって燃え上がるのにどれほどの時が要りましょうか。
女子のような煌びやかなご衣裳をまといながら、めくるめく閨の秘め事。その倒錯と官能のひと時に若君が魂を奪われるのも分からぬではございません。
しかしそこが御城代の悪企みの狙い目。そのようにして若君を骨抜きにして、自らの身の安寧を図っているのでございます。
身体は自由にされようとも、魂まで力で奪うことはできません。
どうか若君におかれましてはお心確かに、お殿様のご無念今一度胸に刻んでいただきとう存じまする。
…とこのようにいくら乳母がお諫め申しても若君はただにやにやと、暖簾に腕押しとはまさにこのこと。乳母は途方に暮れるばかりでございます。
おや、湯殿でこのような長饒舌を…とんだご無礼をいたしました。
 
さあお支度が整いました。
湯上がりの火照ったお肌にしっとりとした練り絹がさぞ心地ようございましょう。
今宵は冷えますゆえ、こちらをお召しなさいませ。ふんわり真綿の入った紋緞子のお打掛でございます。
まあなんと、ふっくらと大きな帯山が奥床しく、そこはかとない色香を醸しておりますこと。
 
 
こうして若君を御城代の閨へお連れすると、乳母は次の間に控えて宿直(とのい)するのでございます。
万一に備え若君の傍を片時も離れることはかないません。
とは申せ若君の召された御城代のお寝間とは唐紙一枚の隔てのみ、その気配は否応なく伝わってくるのでございます。
ご幼少のころよりお側に仕え、わが子以上に大切にお育て申し上げてきた若君。
その若君は今仇敵である御城代様の意のままに辱めを受けているのでございます。この乳母にとってこれほど酷い仕打ちはありましょうか。
宿直の床についても眠ることなどかなわず、お閨の営みの気配が耳につくのも無理からぬことでございましょう。